関ヶ原合戦年表
太閤死去から関ヶ原合戦までの主な出来事等を日時別で記載

年号 月日 主な出来事
慶長3年 8/18 豊臣秀吉伏見城で薨去!!!
辞世の句
つゆとおち つゆときへにし わがみかな なにはのことも ゆめの又ゆめ
幼い秀頼を残し不安と未練があったであろう豊臣政権を揺るがす大事件。
慶長4年
1599年
3/3 前田利家死去。
な・なんと!!!昨年の太閤秀吉の後を追うように、秀吉の頼みの綱とも言える
豊臣政権内で唯一家康の独走に歯止めを掛けていた利家の死により、反家康
勢力には一大痛撃であり、その影響はたちまち現実化していく。
3月 加藤、福島等による三成襲撃事件。
三成を快く思っていない、秀吉子飼いの大名であり、武断派と呼ばれるメンバーによる
三成襲撃事件。事前に襲撃を察知していた三成は、利家の葬儀の際に弔問客にまぎれて
伏見に走り、こともあろうに家康の元へ逃げ込んだ。
武断派からの三成引渡し要求を家康は拒み、慰撫して引取らせたが、三成は一命を取り
とめたものの、失った代償は大きかった。その後三成奉行職を解かれて佐和山へ閉居
3/13 家康、伏見城西の丸へ入る。
利家死去、三成閉居、4大老の毛利輝元、前田利長、宇喜多秀家、上杉景勝等にも
色々な口実の元に領国へ帰国させにより、もはや中央は家康の思いのままとなり家康
は野望現実へ向けて着々と布石を投じていく。
9/7 家康、大阪へ堂々と入城!!!
表向きは、9/9の重陽の節句に際し、豊臣秀頼に祝詞を申し述べると言うものの、この時に
幻の家康暗殺計画が発覚する。家康を前田利長を首謀者として、浅野長政、大野治長、
土方雄久等が登城途中の家康を討とうとしておるとの密告が齎される。
これにより、家康は伏見より自軍の兵2万を大坂へ呼び寄せて、いよいよ大坂城に居座る
事に成功したのである。
10/2 幻の家康暗殺計画の容疑者の処分
奉行の浅野長政は蟄居、土方雄久は佐竹義宣の元へ大野治長は結城秀康の元へ
其々預けの身と成る。これにより奉行は4奉行から3奉行へなり、秀頼、淀君の側近も
排除された。幻の家康暗殺計画は家康の豊臣体制切り崩しの一環であり成功する形と
成ったわけである。
10/3 加賀征伐発令!!!前田利長、無抵抗で家康に屈する。
首謀者とされる、前田利長は容疑は晴れず、その風聞も高まり前田征伐の声明となった
訳であるが。元より全てが家康の虚偽であり、この声明を知った利長は動揺して、直ちに
家老の横山長知を家康の元へ送り陳弁に勤め、母の芳春院を家康の元へ人質として江戸
へ送る事にて窮地を脱する。これにより前田家は保全されたものの家康の膝下へ完全に
組み込まれた形となる
  家康の横暴止まらず!!!
昨年の伏見から大坂に入った後も家康は勝手に、加増、転封を行い多数派工作を行う
加増した領地は全て秀頼の直轄領であり、職権を利用した横暴振りを強める。
11/20 出羽仙北の戸沢政盛が家康に景勝の動静を報じる。
  上杉景勝が上洛を拒否!!!
上杉が城下に浪人を雇い入れ、軍備を増強している事を謀反と糾弾して使者を派遣。
誓詞の提出と上洛しての釈明を要求する。景勝の非違8か条を書き連ねた弾劾状を送る
慶長5年
1600年
4/14 直江兼次が家康に対し堂々と返書。「来るなら来い!白川口で迎え撃つ!!!」
弾劾状を受取った直江兼継は、各条ごとに激しく論駁、家康の要求をはねつけて、挑戦状
にも等しい世に名高い「直江状」を返書としたためた。
5/3 上杉討伐発令!!!直江の書状に家康激怒!!!
直江の返書を受取った家康は、余りの挑戦的な内容に対して激怒。直ちに諸大名に出陣
命令をだした。
6/2 横暴な家康。私戦を公儀の為と偽り軍備発令!!!
関東の諸将に会津出征の軍備発令
6/6 諸将を大坂城へ集めて会津征伐の部署を決定
6/15 家康、私戦に公的資金導入!!!人のふんどしで相撲を取ろうとする!!!
秀頼より黄金1万枚、米2万石を下賜される。
これは家康による巧妙な演出である。これにより会津征伐が家康の私戦では無く、豊臣家
の為の義戦と言う形となる。
「景勝が上洛せずに秀頼様への出仕を怠っているのは謀反の証拠である。だから秀頼様の
ご命令の元に大老として景勝を征伐する」と言う大儀名分を獲得したわけである。
6/16 家康伏見城へ入る
6/18 家康会津征伐へ伏見城を出陣
7/2 家康江戸城へ入る
7/2 三成、家康討伐を打明ける!!!
三成が東征の為、出陣している大谷吉継を宿陣している垂井から佐和山へ招きいれ、
家康征伐の意図を告げる。
大谷は無謀な事だと三成に継げたが、大谷の再三の説得にも関らず三成は頑として譲らず
話は平行線と成り大谷は一旦佐和山から垂井へ戻る。
7/7 東下していた武将を江戸城へ招集。会津出陣の期日を7/21と定めて軍令を下す。
7/8 榊原康政を先鋒として出陣。徳川秀忠も前軍37500にて同日出陣
7/11 大谷吉継、三成に同心!!!
垂井へ戻った大谷は東征への出発を一日延ばして考えた挙句に、三成に同心して
佐和山へ入る。
7/12 西軍最初の首脳会合を佐和山で開催!!!
三成は兼ねてより家康討伐の密謀を明かし、賛同を求めていた毛利の安国寺、奉行の
増田を佐和山へ招きいれ、石田、安国寺、増田、大谷の秘密会議を行った。
内容は
@毛利輝元が西軍総大将へ就任する。
A三成の兄正澄を愛知川に派遣して東征する諸大名を引き止める。
B織田秀信に豊臣秀頼の後援を要請する。
C大坂にいる東征している諸大名の妻子の帰国を禁じ、人質とする。
同日、この案件を大坂にいる奉行、前田、長束を取り込み3奉行に寄る連署による輝元
への出馬要請状が送られる。
7/16 毛利輝元が大坂城西の丸に入る!!!
西軍の総大将として豊臣家安泰への切り札とも言える大大名毛利家の大坂入りで西軍
の指揮が高まる。
7/17 西軍挙兵宣言!!!
3奉行連署の檄文を「内府ちかいの条々」諸大名へ交付。
13か条に渡り家康の罪状の数々を列挙したものである。
7/18 毛利輝元は伏見城へ開城要求
家康が勝手に私物として使っている伏見城へ開城要求。
7/19 家康の家臣鳥居元忠の開城拒否により西軍伏見城攻撃開始!!!
開城要求に鳥居元忠がが応じない為に即座に伏見城攻撃がはじまった。
場内の兵は1800。対する西軍は宇喜多、毛利、小早川、島津等4万
7/21 家康率いる後軍31800が江戸城出陣
7/22 西軍丹後田辺城攻撃開始
どうして田辺の様などうでもいい所に大軍を送り込むのか?
7/24 鳥居元忠の急使が小山の家康に「三成挙兵」の報が伝えられる。
7/25 東軍小山会議。家康勝負!得意の騙しで切り抜ける。
家康は小山の本営にて戦評定を開いた。その席上三成らの蜂起の事実を告げた後
「三成等に見方をしようと思う御仁は陣払いをして引き返すように。また邪魔立てはしない」
こういい放すが、諸将の動揺した沈黙を福島正則が破り、家康への味方を宣言した後
次々と家康への味方を表明。会議は一挙に家康支持へと決議する。
7/26 家康に騙された豊臣大名が西上!!!
福島、池田を先鋒として東軍諸将が西上する。家康に良いように使われているとも知らずに
8/1 伏見城陥落
8/5 家康江戸城へ帰着。無事難局を乗り切り江戸へ逃げ帰った。
上杉封じ込めの陣容を整えて、江戸へ戻った家康だがこの日から26日間江戸にて滞在する
その間に書状作戦を持って陣営固めに注力し、家康が外様大名へ当てた書状は確認される
ものだけでも155通に昇る。
8/9 石田三成佐和山出陣!!!
8/10 石田三成大垣城に入る。
8/14 東軍清洲城集結
8/19 家康の使者が清洲へ着く
8/20 清洲軍議
岐阜城を初めとする西軍の美濃の城砦の攻略が決まる。
8/21 東軍、美濃への進軍開始
8/22 福島正則が竹ヶ鼻城陥落させる。
8/23 岐阜城陥落する!!!
もう少し頑張ってほしかった岐阜での戦い。あっけなく敗北。
8/24 東軍が大垣西の赤坂に集結!!!
大垣城に攻め込むことなく、陣を張り家康出陣を待つことをする。
8/24 大垣城に西軍主力続々集結
西軍の宇喜多、小西、島津等に大垣入城を要請して、西軍各自へ関ヶ原付近への
参集を要請する。
8/26 三成、佐和山に戻り守備を固める。
9/1 家康江戸城出陣
9/2 大谷吉継が関ヶ原山中村へ着陣
9/3 宇喜多秀家が伊勢長島を攻囲から大垣へ入城する。
9/7 伊勢方面攻略部隊の西軍、関ヶ原南東の南宮山周辺に布陣。
9/14 病気をそうして近江で形成を眺めていた小早川が松尾山へ着陣。
家康、赤坂の岡山に有る本営に着陣
島左近、明石全登が杭瀬川にて東軍に小競り合いで勝利する。
西軍の軍議
家康の本営に先制攻撃を掛けて勝機を掴むべしとの夜襲案
輝元、秀頼の出馬を待って出撃案とに分かれる。
東軍の軍議
大垣城を力攻めにする。
大坂城を攻めて輝元を下す。
大津城陥落
もう二日早く落とせなかったか・・・
9/14 午後7時より西軍の主力部隊が関ヶ原へ移動する。
9/15 家康の元へ西軍が関ヶ原へ移動中との情報が入り、すかさず出陣命令を出す。
9/15 関ヶ原決戦!!!
秀吉の死から700日目で関ヶ原にて運命の天下分け目の一大決戦が開始される。


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