関ヶ原合戦 其の弐

時間 主な出来事
午前7時 両軍布陣を終え、両軍が深い霧の中関ヶ原で対峙していた。
陣立ては西軍が圧倒的優位であり、後年、明治政府の軍事顧問として来日して
いたドイツのクレメンスメッケル少佐が、関ヶ原の布陣図を見て即座に西軍勝利
を断言したと言う有名な話も有る。
西軍は典型的な「鶴翼の陣」鶴が翼を広げて敵を押し込む形の陣形であり、周囲
の小高い丘や山を制し、敵をその中央に押し込む必勝の陣形である。
午前8時 霧が徐々に晴れだし視界が広がってきた時、両軍の睨み合いの合間に東軍の先鋒
である福島隊の横を井伊直政松平忠吉の少数の一段がすり抜けていった。
福島隊の先頭にいる、可児才蔵に前進しようとした所で咎められ、前進を阻まれた
が、井伊が「物見である」と言い放ちそのまま前に進み、隠し持っていた火縄銃で
前方の宇喜多隊に突然一斉に発砲をした。
井伊、松平の発砲により静まり返っていた関ヶ原で重苦しい雰囲気は一瞬のうちに
突き破られて、各箇所で戦闘開始の狼煙が上がり、天下分け目の合戦の火蓋が
切って落とされた。
午前9時 両軍は転地を揺るがすほどの大歓声をあげて突撃を開始した。
福島隊と宇喜多隊は正面から激突。
黒田、細川、加藤、田中、筒井、生駒等の隊は笹尾山の石田隊をめがけて殺到した。
松平、井伊、本多隊は島津と激突。
織田、金近、古田、寺沢隊は小西隊と激突。
藤堂、京極隊は福島隊の背後を回り、大谷隊とその配下と激突した。
両軍が布陣を完了したのは2時間程前であり、しかも濃霧に包まれていた為に敵の
陣形や兵力等は明確にはわからず、細かな戦法等も決められていなかったために
両軍はとにかく目の前の敵を叩く、と言う事が唯一の作戦だったようだ。

関ヶ原での戦場の兵力は西軍がやや有利だが、現実には戦闘に参加しているのは
西軍は石田、大谷、宇喜多、大谷隊等合計35000ほどであるのに対し、東軍はほぼ
全軍が戦闘に参加している形であった。しかし戦況の緒戦は西軍は東軍の倍以上の
兵力に対して互角以上に戦い、東軍を圧倒して戦場の主導権を握っていた。

大谷隊は藤堂、京極隊を相手に奮戦し、藤川での局地戦では完全に勝利している
と言われていた。大谷隊はこの時点で脇坂等4部隊は動いていなかった為に
もしも4部隊が戦闘に参加していたら、京極、藤堂隊を壊滅させる事も出来たかも
知れないとも思われるが、この部隊は小早川の押さえとして温存していたのだろう。

宇喜多隊は、倍以上の兵力差で福島隊を圧倒。猫にじゃれる鼠のように福島隊を
圧倒していた。攻めてくる福島隊を鉄砲隊1000の二段構えので銃撃の雨をあびせ
すぐさま明石が槍衾を作って福島隊を壊滅する手前まで追い込んだと言われている

最大の激戦が、笹尾山の石田隊であった。三成憎しで個人的恨みもある武断派の
武将が三成の首を狙って殺到していた。その数は石田隊の3倍以上の数である。
前衛の島左近、蒲生郷舎が奮闘し、敵が殺到すれば笹尾山からは新兵器「大筒」
を放して東軍を翻弄していた。石田隊はこの大筒砲撃に加えて、鉄砲隊が柵の中
より釣瓶撃ちに銃弾を浴びせて、巨大津波のように襲ってくる東軍を撃退していた。
一時は敵陣に100メートル余りも突入するような攻勢振りを示していたのである。
攻勢していたが、前衛の島左近が、石田隊の中央突破は無理と判断した黒田長政
が密かに鉄砲隊を左翼の丘に潜ませ、攻めて来る島左近の部隊に一斉に射撃を
開始して、このため島左近はかなりの重症を追ってしまったが、蒲生郷舎が前衛を
守り抗戦していた。
午前10時 開戦から2時間未だ決着もつかないまま、高所に陣を張る西軍の方がやや有利に
戦闘が続いていた。

大谷隊は、一歩も引かずに激闘。そして藤川を超えて進撃を開始して戸田、平塚
等が藤堂、京極隊の敵陣を壊乱させている。
宇喜多隊は福島隊の可児の将兵の猛攻にも、明石が槍衾を組み、潮のごとく逆襲
一時は福島隊を最初の陣所から500メートルも後退させていた。
小西隊も一歩も引かず、織田、寺沢、金近隊と激闘をしていた。

10時過ぎに兵力差に圧倒的有利にも関らず、戦況が好転しない事に苛立った家康
は本陣を最前線近くまで移動する。家康の本陣が最戦線まで移ってきたとあって、
東軍の戦意は甦り、黒田、細川、加藤等の笹尾山に攻撃を加えていた諸隊はここ
から更に猛攻を加える事になる。この大攻勢に石田隊の前衛も破られて、とうとう矢
来の柵内まで敵が入ってきたのである。

開戦時は井伊、松平等を小競り合いをしていた島津隊はその後、全く戦闘をせずに
猛攻を受ける石田隊を横で見ながらも、全く動かずに傍観していた。
たまりかねた三成が島津へ加勢を求める使者を送るが断られる。
三成自身も助力を請うが豊久に冷たく突き放された。この島津の態度には前夜の
軍議で、自身の案である「夜襲」を退けられた恨みがあったのであろうか。
島津はこの後も全く動かずに、先頭を傍観することになる。
午前11時 関ヶ原は完全に霧も晴れ、雨も止んだ。依然として東西両軍の激闘は続き、旗指
物が入り乱れている。三成本陣も堅塁を守り、各西軍部隊も尚且つ押し気味で戦
闘を優位に進めていた。三成はここぞとばかりに狼煙の点火を命ずる。
兼ねてから約束していた、小早川、毛利の参戦の合図である。

手はず通りに小早川が東軍の側面、毛利を含む南宮山の部隊が東軍の背後を突
けば西軍の勝利は確定的であっただろう。三成の思いを込めた狼煙が笹尾山に
立ち上る。

直ぐに、小西、宇喜多の陣からも同様に出撃を促す狼煙が上がった。狼煙は南宮山
からもはっきり見えた。安国寺、長束等は狼煙を見た後に、秀元へ出馬の催促を
しているが、毛利の前面に陣を張っている吉川広家が動かない為に進路をさえぎり
毛利は動きを封殺されていたのである。

毛利が動かなければ、残すは松尾山に陣取る小早川隊15000である。この部隊が
東軍の側面をつく形で参戦しても戦況は西軍にかなり有利に動くであろう。
松尾山の秀秋は両軍から好餌を持って誘われていた。勧誘条件は西軍の方が
かなりの好条件であり、秀頼が成人になるまで関白職も約束されると言う条件だ
った
しかし小早川は動かない。石田、大谷、小西等から再三急使が遣わされて
戦闘参加を促した。


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