関ヶ原合戦 其の参
時間 | 主な出来事 |
午後0時 | 家康もまた西軍と同じく焦慮していた。秀秋の裏切りが無ければ勝利はおぼつか ない。苛立ちは時間と共に増幅していく。小姓の旗指物を叩き切ったりもした。 秀秋の内応工作に携わった、黒田長政の元へ急使を派遣して詰問もした。 長政からの返事も思わしくなく、苛立ちは更に高まり、挙句には自分の指の爪を 血が出るまで噛みちぎるような事までしている。 家康は秀秋の陣への鉄砲の一斉射撃を命ずる。関ヶ原から松尾山まで当時の 鉄砲が届くはずも無いわけだが、秀秋への出馬の催促の威嚇射撃である。 一歩間違えれば逆効果になる博打だが、これが吉となり秀秋が最後の腹を決める。 |
午後1時 | ついに秀秋の采配が振られた。「目指すは大谷形部の陣なるぞ」 直後に松尾山に、はためく無数の旗指物が揺れ、全山が鳴動しはじめたと思うや 小早川の軍勢が雪崩の如く山を駆け下り、大谷隊の背後から襲いかかった。 秀秋の裏切りをあらかじめ察していた大谷吉継は、用意していた鉄砲隊で小早川隊に 一斉射撃を浴びせて、小早川隊をたちまち500メートルも追いやった。 だが、必死に奮戦する大谷隊に予期せぬ第二の裏切りが起こった。 小早川に対して備えていた、麓の四将、脇坂、朽木、小川、赤座の四将が藤堂の振る 旗に応じて一斉に大谷隊の側面に攻撃を仕掛けてきた。大谷隊もこれには持ちこたえ ることも出来ずに、そこへ陣形を立て直した小早川、藤堂、京極の各部隊が殺到し、 大谷隊はなす術も無く壊滅した。 小早川、四将の裏切りはそれまでやや有利に戦闘を行っていた西軍全体へ動揺を 与え、戦況を一変させてしまったのである。 大谷隊の壊滅に続いて、小西隊の兵が浮き足立ち、陣中の混乱に拍車がかかる。 小西行長が幾ら叱咤しようにも最早無駄であった。怖気づいた兵の同様は抑える 事は不可能であり、小西隊は総崩れとなり、小西行長も伊吹山中へ逃亡した。 小西隊の総崩れで、隣の宇喜多隊にも動揺が走り、急速に戦意を喪失、混乱の 極みに達した。秀秋の裏切りに激怒した秀家は秀秋と刺し違えようと陣頭に馬を出し たところで、明石の必死の諌めを受けて退却を決断した。小西行長の後を追うように 伊吹山中へと逃れていったのである。 |
午後2時 | 西軍総崩れの中でも石田隊は流石に屈せず、孤立無援の中で最後まで勇猛果敢 に死闘を演じていた。が、挽回の余地は皆無。三成は再挙を期して、わずかな供周り と供に伊吹山中へと落ち延びて行くのであった。 ここで早朝より行われていた、天下分け目の合戦が決した事になる。 しかし、戦場には西軍として参戦していた島津がまだ残っていた。 序盤から攻めてくる敵には攻撃を仕掛けたが、救援を求める三成にも手を貸さずに ほぼ戦闘を傍観していた島津隊は敗走する、宇喜多、小西の兵が助命を求めて陣中 へ入ってきた味方の兵にも銃口を向け追い払っていた。 |
午後3時 | 島津には西軍につく義理もない。また東軍につく義理もない。ただ成り行きで西軍へ 加わってしまった事や、沢渡での退き口の三成に対しての恨み、昨夜の夜襲案を 退けられた事などもあり、傍観を決め込んでいたのだ。 しかし勢いづく東軍にそんな事は関係無い。福島、小早川等の諸隊が次々襲い掛かり 激闘の末、島津隊の兵は半減した。 島津義弘はここで決断する。家康の本陣に切り込み、死に花を咲かせようと思った。 しかし甥の豊久が戦場離脱を勧めた。前後左右全てが敵となった今、敵中突破と言う 奇策を決行する事にした。奇声を上げて牧田口へ向かい走り出した。余りの気魄に 東軍の兵士は思わず道をよけた。火の玉のごとき一団は、多数の将兵の固める家康 の前面をかすめて牧田口に達した。島津の奇策に驚きをなしていた東軍諸侯もわれに 返ると、すかさず島津を追撃始めた。乱戦の中で追撃隊が島津に猛襲を加える。 |
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